竹村健一氏 自伝『我が人生』会報誌にて連載中
他所では読めない、竹村健一先生の波瀾万丈の自伝です。
会報誌で好評連載中
本会では、テレビやラジオ、執筆、講演など幅広い評論活動を行なっている竹村健一氏の連載記事を会報誌上に掲載しております。竹村健一氏は本会の講師である山口令子先生とご友人で、その縁で本会の会報誌に記事の掲載しはじめたという経緯があります。
現在は、『竹村健一の我が人生』として、竹村先生の半生と重ね合わせて激動の昭和という時代を振り返る、自伝的ノンフィクションを連載中です。竹村先生の先見性やユニークな視点が培われた子供時代、日本人としていち早く欧米に渡り、時代の寵児となった青年時代、そして大政治家のご意見番として活躍され続けている現在までの様々な逸話や、これまで語られなかった歴代総理の裏話など、他では読むことの出来ない抱腹絶倒、目からウロコの連載です。
記事の抜粋
【そして、敗戦】
中学三年生の時に敗戦を迎えました。
今でも覚えているのは、とにかく暑い日だったということですね。この日が暑かったことは、いろんな人が回想しています。
その八月十五日のお昼、生徒たちは校庭に並ばされて、皆で玉音放送を聞きました。その時は何のことか分かりませんでしたね。あの頃、ラジオもボロだったし、天皇陛下の声もかすれていたような印象がある。だけど、戦争が終わったということは、その日のうちに分かったと思います。
今は皆驚くでしょうけれど、当時は、戦争に負けてアメリカ兵が来たら、女性は皆、強姦される、男は皆、殺されるという噂が流れました。実際はそんな酷いことはあまりなかったけれど、噂を信じて山奥に逃げた人も沢山いたでしょう。
敗戦直後は、価値観ががらっと変わり、例えば教科書も、日本が正しいという記述は皆、墨で塗りつぶされました。よく「教師も掌を返したように言うことが変わった」と言う人がいるけれど、僕にはそういう思い出はありません。
一方、八月十五日を境にがらっと変わったのは、級友たちの態度でした。戦時中、皆が農作業をやらされていた時は、「ぐうたら」と言って僕をいじめてた奴が、今度は、全員、勉強中心の生活に戻ったら、途端に愛想が良くなった。僕は勉強が出来たから、教えてもらいたいからだったんですね。
これは僕にとって非常にいい教育でした。つまり、僕はいじめられたけども、それは少数派であったり、農業が下手だったからで、必要な人間になったら、皆、下手に出てくるものだと。だから実力をつけなければいけない、と学んだわけです。
戦争が終わって、親父は、生まれ故郷の兵庫県黒川村へ家族を連れて帰ることにしました。今で言うリタイヤをして、田舎に引っ込んでもいいと思ったんでしょう。父はいろいろ寄付もしていて、村で尊敬されていたから、田舎へ帰った方が居心地も良かったんでしょう。皆が「貞次さん、貞次さん」って丁重ですからね。
そして、僕と上の妹だけは生野町に残って、僕は中学校、妹は小学校へ通うことになったわけです。 〜中略
夢中になったアメリカの味
バーテンダーのアルバイトを始めて、僕は生まれて初めてコーク(コカコーラ)の味を知りました。今は誰だって飲むけれど、当時はすごく珍しかったから、弟たちや親父に飲ませてやろうと、時々ポケットに入れて、家へ持って帰っていたわけ。
その時に、ありとあらゆるお酒も試しました。それまでお酒といえば日本酒ぐらいしかなかったし、第一、子どもでしたから、お酒の経験なんか、なかったですからね。
食べ物も出ました。スパゲティというのを食べた後、穴の開いたマカロニにびっくりしたのを今でも覚えています。当時は日本では食料事情が良くなかったから、進駐軍で働いていると珍しいものが食べられたし、アメリカ人は食べる量が多かったですから、その点は良かったですね。
そのうちに段々大胆になって、ウィスキーを持って帰ったりしました。その頃、日本には、アイデアル・ウヰスキー(終戦時に売られていた国産ウイスキーの銘柄の一つ)という名前のウィスキーしかありませんでした。物不足の頃で、国産のものは粗悪品が多かったから、そのアイデアルのアルコールも危ないという人もあってね。だから、時々外国のウィスキーをポケットに入れて帰りましたよ。
ウィスキーのビンは大きくてポケットに入らないので、コカコーラのビンに移して持って帰るわけです。親父たちもそれで初めてウィスキーを飲んだんでしょうね。
ある時、ウィスキーばかりでは変化がないからと、甘いリキュールを入れて持って帰ったこともあります。ところが、その夜、まだ小学生だった弟が、夜中に何度もふらふらと起き出して、水を飲みにいくんです。おかしいなと思ったら、リキュールが甘くて美味しいから、どうも飲んでしまったらしいんですね。そんなこともありました。
明るいアメリカ人
進駐軍の人たちは、明るかったですね。悪い印象はほとんどない。ただ、伍長程度の大したことのない階級の人たちが、日本人全部を統べて威張っていたりしました。今思うと、あまり教養のない人間も兵隊の中にはいましたね。
ベース内の施設は、将校倶楽部、下士官倶楽部というように分かれていて、たまたま僕がバーテンダーとして勤めたのが将校クラブだったわけです。彼らは大学などを出た、それなりに教養のある人たちで、そういう人を身近に見られたのは運が良かったですね。奥さん方も割合美人がいました。
兵隊の中には、白人も黒人もいましたね。日本人の大半は、白人も黒人も見るのは初めてでしたから、物珍しかったでしょうね。
おかしかったのは、僕は数カ月はそういう外国人の中にいたくせに、後にフルブライトの留学生として初めて渡米して、一番びっくりしたのは、エール大学に行ったら、黒い髪に黒い目の人たちが沢山いたことです。イタリー系とかラテン系の黒い髪の人たちに、日本ではあまり会っていなかったということかもしれませんね。
英語に開眼
バーテンダーを始めて三日目ぐらいに、車に荷物を積めと言われて、積み始めた僕に、" wait a minute." と。それが僕には、「ウェイラミニ」と聞こえた。そしてすぐに、wait a minute.だと分かったわけ。これが嬉しかったね。それがきっかけで、だんだんと英語が分かるようになりました。
一度、停電になったことがあって、停電って英語でどう言えばいいのかと考えて、我々の監督の男に、「カット・エレクトリシティ」と言っても通じない。電気が止まったということだから、ストップとか、いくつか言っているうちに、彼は電気を見て、" Oh, no light."と。ああ、こういう言い方をするのか、と感心しましたよ。考えてみたら、確かに "no light " ですね。そうやって少しずつ体で覚えていきました。 (続きは、会報誌にて連載中です。)
過去の連載タイトル
1995年1月号より、竹村健一氏と山口令子先生の対談を11年間に渡って掲載してきました。 ※この内容の一部は著書『竹村健一式頭脳で21世紀が始まる!!(桜の花出版)』『わし、日本が好きやで(桜の花出版)』に収録されています。
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