死の覚悟
中年を過ぎる者は達観を覚え他者を受け入れる事を心せよ
- 【問】
現在45才の健康な男性です。しかし、明日生きている保証もなく、それに対して死ぬための準備がまるでできていないことを反省し、身辺整理など準備を進めています。死ぬ準備ができてこそ、より積極的に生きることができると考えるからです。その中でお伺いしたいことです。- 1)家族には葬式や墓は不要、骨は迷惑にならない所に捨てるようにと頼んでありますが、よろしいでしょうか。
- 2)不本意にも病院に運ばれ、助かる見込みのない場合、安楽死等は霊的な観点から許されるのでしょうか。
- 3)臨終の際の気持ちの持ち方等、大切な点をお教えください。
- 4)自観をもって「いつ死んでも構わない」という心境にまで達するでしょうか。
- 以上、よろしくお願いいたします。(東京・Y)
- 【答え】
- さて、あなたの文面からは、何とも言えない力みが伝わってくる。力みがあるということは「何か」が間違っているということである。その「何か」とは何か、あなたは考えないといけない。ここから伝わるあなたは、とても高飛車である。こういう事を言う私にも食ってかかりそうな勢いがある。それは、あなたを優秀な才能へと導いてきたかもしれない。独自の世界で、満足出来ているかもしれない。
しかし、私には「何か」が違う気がする。
一度、力を抜いた方が良い。あなたの力みは、明らかに、偏ったものである。とても攻撃的で、十代の尖った少年と対している感がある。それ程に純粋な部分があるという表現も出来るだろう。しかし、それでも、もう力を抜く年齢であることに気付かねばならない。
さて、質問にお答えする。 - 1)あなたが墓や葬式を不要と思うならば、何ら問題ない。しかし、あなたの家族も果たしてそうなのだろうか。家族も同様ならそれで良いが、そうでないなら、家族の希望に従う必要がある。何故なら、彼らの方が、あなたの死後一切の世話をしなければならないからである。先ずは家族のご意向を確認することである。この世に生まれるという事は、我が儘を改善するということである。求道とは、只、前へ前へと歩むことである。決して力むことではない。他者との調和なくして悟りもない。皆が納得する形でこの生を終わらせることである。少なくともその様に努力しなければならない。荼毘については、骨が残らぬよう完全に灰にしてもらうよう、事前に頼んでもらうのが良い。そうすれば、散灰も問題がない。敢えて言えば、あなたは山よりも海への散灰の方が支障が出ない。両親の骨壷に入れることも灰なら可能だ。
- 2)ある程度まで治療は受けるにしても、それ以上の治療そのものが患者にとって、全く利益とならず、只苦しめるだけの場合には退院し、自然死を以て最期とするべきである。それが正しい生き方=死に方である。
- 3)妻子をはじめ、愛する人々、そしてこの人生でお世話になった人々、一切の関わりあった人々に、先ずはきちんと心からの感謝をすることである。その為にも、葬儀はどんな形であれ、あった方がよいのである。その時、旅立つ者は、残される人に、最期の別れを為すことが出来るからである。肉体があった時には感じなかった、ある種の達観がその時訪れてくれるだろう。それは、生前の思いとは異なる「何か」をあなたに与えてくれるかもしれない。とにかく、臨終に際しては全てに感謝し全てを愛し全てを慈しむことである。これが全てだ。
- 4)勿論、あなたが自観に精通すれば、そうなるのは当然のことである。
さて、45歳で健康なら大いに結構。これからのあなたは、他者を受け入れることを一生の修行とされると良い。常に自分を開放し、頭が低い人を目指すことである。常に上から物を見、言うのではなく、下からも見上げ、下から物を言うことも大切な修行である。偏りなく、どこからも正しく見られる意識という空間認識によってその距離感や見え方の余りの違いなど気付かれると更に深い人生となろう。














